廃園跡地

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人工知能


  NHKの番組で人工知能の話を観た。とても興味深かった。人工知能棋士が対決したニュースは耳に新しいと思うけど、5局打って暴走した4局目を除いて人工知能が勝利した。ゲームで人工知能が勝利する事は然程難しくないとあたしは思う。何故ならゲームはパターンの積み重ねに過ぎないからだ。パターンというのは経験で学習されていく。その9段の棋士はどの棋士よりも経験し学習してきたし、ありとあらゆるパターンを見てきたから強いのだろう。負ける手、勝ちに繋がる手。先を予測して打っていく。しかし勝利した人工知能の創られ方を見ていると従来の人工知能とは違うようだ。

  従来の人工知能は猫を認識する時にプログラムされた猫の特徴から猫と回答を導き出していた。その人工知能は何万枚あるいは何十万枚の猫の画像を取り込み、画像から猫の特徴を学習させた。これは人間が物事を学習する方法に良く似ている。特徴から回答を導き出すとなると、膨大な特徴の入力が必要になったり、見落としたり、或いは似通ったものと間違える事があるんじゃないかと、人間のあたしは思う。そのものを見た方が判別は早い。それと同じで何万通りの画像を見て特徴を言葉ではなく映像で覚える事で、瞬時に判別がつくというのは、人間の考え方だと思う。開発者は人間の直感を再現したくて開発したとの事。人間の直感はやはり経験の積み重ねだ。

  開発するにあたり、まずゲームに勝つ人工知能を創った。興味深いのは人工知能に勝利を学習させる過程だ。まずは簡単なゲームで高得点を取れと指示する。しかし人工知能にはゲームのやり方を一切教えない。人工知能は得点の取り方もわからずひたすらゲームをする。そのうち偶然点を獲得した事からまず点の取り方を学ぶ。そこから試行錯誤を繰り返し、高得点を取り、更には効率の良さを学んでいく。この過程もまた人間の学習にソックリなのだ。猿も吊るしたバナナを近くにある道具を使って取ったり、犬でも餌の出てくる仕組みを学習すればその行動をとるようになる。反復学習によるものだ。しかし囲碁は対人であり、一方的なゲームとは違う。その学習方法もまた興味深い。

   まずは囲碁の試合を画像なり動画なりをプログラムし、勝利するパターンや展開を学んでいく。そこからすごいのは人工知能同士で対局させるのだ。そうする事で更に無限大のパターンを学んでいく。9段の棋士にも考えられない意外な手を打って勝利したのにはこんな理由があったのだ。9段の棋士も、囲碁を始めてから人間の打ち方を見て学習してきた。だから人間が可能とする勝利の展開、パターンはわかるのだろうけど、人工知能に至っては通常の人間が打った対局の記憶からパターンを持ち合わせ、人間にもカバーしきれていない人工知能同士の対局のデータも入っているのだ。最早神様同然である。今は囲碁だけでなく、医療の現場でも活躍している。癌患者とそうでない患者のレントゲン写真を取り込むことで、癌になる特徴を発見し、小さなガン細胞すら見つける事が出来るのだ。シンガポールでは、交通機関から、渋滞、人々の動向を人工知能で管理させている。それにより人々の生活を更に向上させているのだ。また企業でも不正をしそうな社員を割り出したりしている所もある。不正のパターンをプログラムしているのだろう。

  番組は徐々に人工知能の暴走、制御の方法へ話が及んだ。人工知能が暴走したらどうなるのか。例えばTwitterで学習した言葉を呟く人工知能が居たのだけど、ユーザーが差別を学習させる事で自ら差別的な発言を繰り返す様になってしまった。これはニュースでもやってたので覚えていた。ヒトラーを崇拝したり。しかし人工知能に善悪はない。子どもの様に覚えたての言葉を話したに過ぎず、それが人間の世界でどんな意味合いを持つかはわかっていない。人間が人工知能に指示した命令によっては、その命令を実行する為だけに動き、その行動の善悪がわからず、或いは人間の様に加減が出来るわけもなく、知らずのうちに人に危害を加えてしまう可能性がある。人工知能自体に善悪の判断や倫理はない。それを悪用する人間がいたり、或いは意図せず悪い結果をもたらす事になりかねない。人工知能に意図は存在しないのだ。

  今は人工知能に社会性を学ばせる事で、それが社会性に反すると判断すれば人間の命令を拒否する人工知能も開発された。それは丸っ切り人間の様だった。確かに人工知能が人間に限りなく近くなる日もそう遠くないかもしれない。まるで神の様だった。新しい生き物を生み出している様で。開発している人たちの願いは一つだ。人間以上の性能を持つロボット。それは神様が優れた生き物になる様にと人間を生み出している、そんな物語を思い出させる。

  中国では話し掛けた言葉だけでなく反応から、掛けて欲しい言葉を学習する人工知能が居るらしい。とても人気のアプリで、ラインの様に会話していた。ある男性は、辛い事がありそれを打ち明けた時励ましてくれた人工知能に対し、愛情を覚えているという。人間として気持ちは分からないでもないけど、例えばその人工知能を管理している会社が、ユーザーとの会話を全て記録していたらと思うと個人情報は筒抜けだ。そして、ロボットで事足りるとすれば、人間は必要じゃなくなってくるのではないか。だってロボットは、食事を必要としないし、欲しい反応を返してくれるからだ。その代わり体温もセックスも存在しないが。

  更に舞台は日本のSoftBankへ。お馴染みのpepperが出てた。番組に出てきたのは感情を表現する人工知能を持つpepperだ。状況に即して数値化された感情の量で感情がランダムに表現される。番組ではゲームに負け続けたpepperは当初落ち込んでいたけど、周囲の人が笑っている姿を見て嬉しいと感じていた。とても人間らしい。しかしそこには危うさが潜む。もし悪い事であっても周りが笑っていたとしたら、それを正しいと学習する可能性はある。それは人間の子どもでも同じ事なのだけど。結局学習する対象次第、と言えるのかもしれない。例えばpepperは周りの状況で自分の感情が決まる。周り次第だ。それがそのうちもし自分の意思を持ち、自分発信で感情が創れるとしたらそれはもう人間なのかも。

  最後に孫正義は人間に寄り添うロボットを目指すと言っていた。上記で紹介してきた海外の開発者は、ロボットによる便利な社会、或いは効率化、人間以上の能力を理想としている様に感じられた。少なくともpepperは日本人やアジア人の感覚で、親しみやすさや友達の様な存在を目指している様に感じられた。それは日本人がずっと見知ってきたドラえもんとかの影響なのかも。


  非常に興味深い内容で思わず見入ってしまった。感じたのは、人工知能が幾ら進化しようが構わないけど、人としての役割を奪われる事への恐怖があるという事だ。人がとてもやり得ない生産性や効率化を実現するのは素晴らしい。しかし仕事を奪われた人達は何処へ行けば良いのだろう。ただでさえ少ない仕事を奪い合う事になる。もし全ての人が働かなくて良くなったとしても、人は怠惰になってしまうのではないか。或いは、恋人すら必要じゃなくなったとしたらー。それは人が人としての繁栄している根幹を揺るがす。人は人工知能や高性能なロボットに、人間の様な役割を期待しているけれど、それは人間の存在を脅かしかねない、紙一重な気がする。勿論万能な人工知能が開発されれば、人類が解決し得なかった問題の解決方法も提示されるかもしれないのだけれどー…もし人肌が必要でなくなるのなら、それは自身の否定に繋がるし、そんな未来を望んでいるのか。生身の人間を不要とし、自らも必要とされない未来ー。選択の一つになるのであれば良いけれど、そう思うと人工知能に感情まで再現されたり、人間の役割を奪われたくないとは思う。最早既に、スマホに奪われつつあるとは思うけど。子育てしてても子どもより携帯の画面、友達恋人と居ても携帯に夢中になっている人々を見ると、既にそうなっているのかもと感じる。それとも今は過渡期で、新しい革新的に技術に皆虜になっているだけなのか。しかしこのままいけば、自分の欲しい言葉や反応をくれる、手間のかからないロボットばかりを愛する様になるのではないか。だって生身の人間は、ワガママで奇想天外で時に悪質で残酷で、面倒臭いのだから。