廃園跡地

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自己肯定感


  母親の呪縛〜自己肯定出来ない女達/ぼくら社blog
の記事を読みました。

  
  自分の身体を大事にしなさいと子に説いても、自己肯定感の低い子はそれを理解出来ないって話に衝撃を覚えたと綴られている。

  自己肯定感。最近よく出るワード。あたしの親は過保護で、あたしは何も出来ずに育ち、物凄い挫折を味わった。所謂毒になる親であり、機能不全家族とも言えた。ACやボーダーっぽい所もチラホラあり、色々抱えていた時期もある。

  そんな時期読んだ文献にもあった自己肯定感。自分が大切な存在である、かけがえのない存在であると思える心、らしい。調べると。

  以前はそんな事を思った事はなかった。生きてて良いのか、生きてる意味はあるのか、生きる価値なんてないんじゃないか。その問の連続だった。


  親は過保護であり、過保護は一見愛情の様に思えるが、何もさせてはくれない。挑戦をさせない。なので出来る事が少ない。自分が乗り越えられたものが少ない。自分が頑張った事が少ない、そして認めて貰えた事が少ない。これは出来っこない、あれは危ないから辞めておけ。否定のオンパレードだった。こんなんで自己肯定感なんて育つ訳もない話だ。


  上記のブログの内容を簡潔に記すと
  • 自己肯定感の低い女性が多い。
  • 諸外国に比べて低い日本人の自己肯定感。
  • 母親との確執。
  • 母親の娘に対する願いや要求が高い。
  • 女性の人生は大きく変化し、良妻賢母としての女だけでなく、労働力や賢さ、才能様々な物が求められる様になった。
  • 男の子に関しては異性である為よく分からないが、同性の女の子であればよく分かる故に厳しくなる
  • 核家族により外された祖父母というクッション。
  • 母親も同じく、女の生き方を迷ってきたのだから、そろそろ許してあげようか。
かなり適当だけどこんな内容だった。


諸外国に比べて低い日本人の自己肯定感
  これは本当にそうで、そりゃ日本人自信なんか持てないよって、ネガティブにもなるよって思うわけだ。日本の親の子育てっておかしいと思う。

  子育て自体かなり閉鎖的で都市部では母親がほぼ独りでしてる。なので個々の家庭がどうやって子育てしてるかは分からないけど、女の子は兎に角制約が多い。危ないからアレをするな、といった様な。そして褒められる事が少ない気がする。自発的にする事を褒めたりもしないし、危ない事はやらせない。責任が取れないからだ。そして、目立てば子ども社会でもはみ出し者にされる。率先して意見を言いづらかったり、遠慮する文化がすごい。最近はだいぶ変わってきてはいると思う。そういうのは以前よりもベビーカーで出掛ける母親を見ると感じる。子どもを連れて出掛けるのは好まれない環境だけど、母親は堂々と出掛ける。そういう権利を享受出来る様になってきてはいるのだ。


 結局日本人の子育ては勿論、やっぱり核家族化は大きいと感じる。家庭内で嫌な事があっても、祖父母がいればクッションになっていたし、ずっと子どもにつきっきりだと母親もノイローゼになる。しかし核家族化した事で育児は本当に閉鎖的になった。父親は不在。そうなると母親を支えるものはない。それが歪んだ育児に発展する。閉鎖的な環境は虐待を引き起こし易くなったり、子どもに依存し、過保護になったり、過度に期待をかけたりする様になる。子どもは母親を支えなければならなくなる。子どもは子どもでいられなくなるのだ。

  特に女の子ともなれば、危ないから籠の中に入れて、保護したつもりになる。男の子は大きくなると比較的自由になり、友達との行動範囲も広がる。でも女の子には門限があったりするのだ。


  自分を大切にするということ
  自己肯定感が低いと、相手に性的に求められても、自分が愛されてると錯覚し肉体関係に依存してしまうとあった。相手の要求を受け入れないと愛されないと思い、どんどん自分を大切に出来なくなっていく、と。

  それは本当にその通りだ。実際自分がそうであり、体の関係と本当の愛という区別がつかない時期があった。親との関係を彼氏との関係で何度も再現してしまう。親の顔色を伺い、愛されそうな事をする。相手の要求を受け入れ続けなければ愛される資格がないと思っていた。逆らう事はしなかった。無条件に愛された事がないからだ。だからそんな虚しい事をした。でも性的に求められても一時的であれ満足出来る事が、自分で幸せだと思っていたし、安堵していた。怖い事に。本当の愛は多分違うと思いながらも、不要になるよりマシだと思っていた。

  母親を許してやりましょうなんて、ペラい言葉だとあたしは思う。薄っぺらくて何も分かっちゃいない。許せたら憎んですらいない。

  あたしは母親を憎んで良いと思うのだ。ロールモデルがいないから、あたしを犠牲にしたと言われても、あたしは憎む。んなもの、生まれた子どもにゃ関係のない事だ。自分を粗末に扱った人間に対し抱く正常な感情で、それこそ自分の為に自分が怒るべきだと思うのだ。そして憎んで憎んで、憎んで、そして何にもならない事が分かったら、歩き出せば良いと思う。

  憎んでも、今後の人生に何のプラスにもなりはしない。でもその工程を経て、そして憎しみを手放す事で自立出来ると思う。反抗期を乗り越えなければ、母親から分離は出来ないと思うのだ。

  憎み切ったら、もう自分の人生は自由だ。否定される事も、無視される事も、認められない事もない。全て自分で決め、自分で褒める。最初は嘘くさいと思っても、そうして自分の中にいるいたいけな子どもを大切にしてあげる。それだけでも違うと思う。そして多くの文献を読み、自分を客観視する事で自分をもっと知る事が出来る。自分に恋人が出来たらたまには甘えてみるのが良い。恋人に親の代わりは出来ないし、与えられなかった親の愛情はもう与えられる事はない。しかし人に大切にして貰える喜びを知る事が出来る。それを繰り返せば、自己肯定感は高まる。あたしはそうだった。

毒になる親

毒になる親